インドネシアが植民地支配を初めて受けたのはヨーロッパの列強が植民地支配を強めていた大航海時代。インドネシアという国家が形成される前のジャワ島がオランダの植民地支配を受けました。インドネシアを訪れたり生活を送ったりするうえで、その土地の歴史は知っておきたいもの。
- インドネシアの植民地っていつからいつまで続いたの?
- インドネシアの独立を日本が助けたって本当?
- インドネシア人は本当に親日家?
と疑問を抱くあなた。この記事では、インドネシアの植民地の歴史とインドネシアと日本の歴史について紹介しています。インドネシアの植民地の歴史について興味のある方は是非参考にしてください。
記事の目次
インドネシアを初めて植民地支配したのはオランダ?
インドネシアの歴史を調べる時に必ず出てくるオランダ。オランダはインドネシアを植民地支配していた国の1つです。はじめに、インドネシアとオランダの関係、さらにインドネシアと日本の関係について紹介します。
オランダやヨーロッパ諸国がアジアに進出してきた15~16世紀は大航海時代。インドネシアのみならず、インドや東南アジアの気候は香辛料の栽培に適しており、ヨーロッパ諸国は西欧の食生活で不可欠だった香辛料の獲得を試みます。
1596年、オランダの商船隊がジャワ島西部に来航し、1602年にはオランダ東インド会社(VOC)を設立。ここからインドネシアではオランダによる植民地支配の時代が始まります。
オランダによる植民地支配がはじまる前からイギリスやポルトガルがインドネシアにやってきましたが、オランダが追いやり、インドネシアの主導権を握ることになりました。現在でも、北ジャカルタのクタ地区にはVOCの倉庫があります。
オランダがインドネシアに来航したころ、日本は豊臣秀吉が全国を統一していた時代。オランダ東インド会社が設立した翌年(1603年)は、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利し、江戸幕府が開かれる年です。当時、日本もスペイン・ポルトガル・オランダと貿易を行っていました。
その後、江戸幕府は士農工商の身分制度の崩壊やキリスト教の布教を恐れ、鎖国を開始。ポルトガル船の入港を禁止した1639年から、ペリーが来航し日米和親条約を結ぶ1854年まで鎖国をします。
なお、キリスト教の布教に関心が薄かったオランダと中国とは、出島で貿易を続けており、オランダからは、胡椒や生糸などを輸入していました。もちろんその中にはインドネシア産のもの日本へ入ってきたことでしょう。
独立運動に至るまでの経緯
オランダがインドネシアを植民地支配してから、インドネシアはどのように独立に向かうことになるのでしょうか。ここではインドネシアがオランダから独立する過程について紹介します。
1602年にオランダが現在のジャカルタにオランダ東インド会社を設立して植民地支配を開始して以降、約300年にもわたってオランダの植民地としての支配が続きます。
オランダはインドネシア農民の土地を奪い、コーヒーやさとうきび、香辛料や染料などの利益率の高い作物を作らせました。インドネシアの人々を家畜のように働かせたといわれており、また利益率の高いものを作らせた結果、米や小麦畑の数も減り、多くの地域で飢餓が発生しました。
また、この植民地支配ではオランダによる徹底的なインドネシア人の愚民化政策も特徴として挙げられます。農業をさせるだけなので教育は必要ない、また知識人のよる独立心の芽生えも抑制する、といった目的で行われました。この政策によりオランダは300年もの間、インドネシアの統治が可能だったと考えられています。
その後、インドネシアがオランダからの植民地支配から独立する大きなきっかけとなった太平洋戦争。1942年当時、力を持っていた日本はインドネシア以外にも既に東南アジアの数か国を占領し、インドネシア上陸後はわずか2か月でオランダ軍を無条件降伏させました。ここから日本によるインドネシアの統治が始まります。
日本の統治はオランダの植民地支配とは大きく異なっており、教育面において日本はエリートだけではなく庶民に対する教育政策も行っていたり、拘束されていたスカルノとハッタを開放して協力体制をとったりと、日本はインドネシアをオランダから解放したとの意見もあります。
日本がインドネシアを支配している間に独立の兆しが高まり、その後日本が降伏した1945年にインドネシアは独立宣言を行いますが、オランダが認めず植民地政策を再開します。これにはインドネシア側も反発をし、独立戦争が勃発。この独立戦争はみるみるうちに激化し収集がつかなくなっていきました。
そしてついに東南アジアの情勢のこれ以上の混乱を懸念したアメリカがオランダに撤退を要請します。その後1949年のバーグ協定により正式にオランダからの承認を得て植民地支配からの独立を成し遂げました。独立記念日に関してはスカルノとハッタが独立宣言をした1945年8月17日としています。
この独立戦争で残留日本兵が戦闘に加わったり将兵の教育や作戦指導を行ったりしました。カリバタ英雄墓地には27名の日本人戦没者が埋葬されています。その他にも、中部ジャワ、スラバヤ、バリなどの英雄墓地に日本人戦没者が埋葬されています。
日本はヒーロー?嫌われ者?教科書に載っている日本の姿
インドネシアの独立までの経緯は上記の通りですが、インドネシアから見た日本はどのような国だったのでしょうか?近年ではインドネシアは親日として有名で、インドネシアには多くの日本企業や日本人が在住しています。
先進技術やサブカルチャーの影響もあり、インドネシアの人々は日本が好きだ、行ってみたいなどと語る人がほとんどで、つい何十年前まで植民地支配されていた国に対する態度とは思えないほど。
次に、インドネシアの中学校の教科書に当時の日本の姿がどのように書いてあるかを紹介します。特に日本がインドネシアを植民地支配していた期間と、独立にどう関わったかというところに注目します。
日本が行った植民地支配とは?
インドネシアの歴史の教科書には太平洋戦争について書かれているページがあり、そこに日本軍が行った植民地政策についての記述は以下の通り。
Ketika menduduki Indonesia, usaha pemerintahan Jepang di bidang sosial yaitu dengan cara melakukan pemerasan tenaga manusia di daerah pendudukan Jepang sebagai tenaga kerja. Adapun usaha tersebut diwujudkan dengan pelaksanaan program berikut
(インドネシアを占領していた際、社会分野における日本政府の取り組みは、労働力として日本の占領地域で人々の力を強要することによって行われた。この取り組みは、次のプログラムを実行することで実現した。)※意訳
①Romusha(労務者):すなわち日本植民地時代に行われていた無報酬の強制労働。これによって道路、飛行場などの公的施設の建設に労働力が向けられた。
②Kinrohosi(勤労奉仕):指導者や時代の有力者の為の無報酬強制労働
要するに、日本が社会インフラを整備した際に、インドネシアの人々に強制労働を強いていたという記述です。こういった内容の後に、「労務者や勤労奉仕者の役になって寸劇を行ったうえで、グループディスカッションを行いましょう」という記載があります。
それ以外にも日本が植民地時代に行ってきた残酷なことはそのまま赤裸々と書かれています。グループディスカッションもあるため、人によっては強く印象や記憶に残ることも考えられます。
Jepang dengan segala keserakahannya terus-menerus memeras kekayaan rakyat, sehingga Jepang yang hanya 3.5 tahun menjajah Indonesia menyebabkan kemiskinan dan kesengsaraan. Hal ini dapat dibuktikan dengan adanya:
(強欲な日本は、次々に人民の富を搾取したため、3年半のみの占領で貧困と苦痛を与えた。これは次の存在から証明できる。)
A. penyakit busung lapar yang merajalela.
(栄養失調で腹が膨らむ病気の流行)
B. bahan maupun mutu makanan sangat berkurang, sehingga banyak rakyat mati kelaparan.
(食料の量と質が低下したため、多くの人民が餓死で死亡)
C. rakyat sangat kekurangan bahan pakaian, sehingga tidak sedikit yang memakai pakaian dari karung goni.
(衣料が不足したため、麻袋で作った服を着る人が少なくなかった)
インドネシアの独立と日本の関わりは?
ではここから独立の際に関する記述を見ていきましょう。まず目を引いたのが以下の記述。
Pada tahun 1944 Perdana Menteri Koiso memberikan Perdana Menteri Koiso janji kemerdekaan di kelak kemudian hari kepada rakyat Indonesia. Sementara itu perjalanan perang telah sampai di titik kritis, sehingga kantor-kantor diperbolehkan mengibarkan bendera merah putih, tetapi harus berdampingan dengan bendera Jepang Hinomaru.
(1944年、小磯総理はインドネシアの人々に将来の独立を約束した。この時、戦争は厳しい局面を迎えており、インドネシア国旗の掲揚は日の丸国旗の掲揚と一緒でなければならなかった。)※意訳
これは小磯声明に関する記述です。
日本は将来的なインドネシアの独立を認めたものの、まだ日本の植民地支配下にあり、インドネシア国旗は日本国旗との掲揚が求められました。インドネシアが小磯声明に関して、好意的に受け取っているかは不明ですが、少なくとも「日本が独立を助けた」や「日本に感謝している」といった内容は一切ありません。映画『ムルデカ17805』で描かれている表現はゼロといえます。
インドネシアの植民地時代まとめ
オランダと日本が大きく関わるインドネシアの植民地支配から独立までの歴史。特にインドネシアの教科書に日本がどのように記載されているかは、日本人は知っておきたい点ではないでしょうか。
中学校の教科書の中では、日本がインドネシアのオランダによる植民地支配からの独立を支援したという直接的な表現はなく、植民地支配時のマイナスイメージを与える模写に留まっています。インドネシアの地方に住んでいる老人たちは日本の事を良く思っていない人もいるようです。しかし、カリバタ英雄墓地に日本人が埋葬されていることから、一部の日本人が独立を手助けしたと考える人も一定数いるのも事実。
日本側の視点でのみ歴史を学ぶと、独立を助けたという点がフォーカスされがちですが、インドネシア側の視点で当時の歴史を知ることも重要ではないでしょうか。
現在、多くのインドネシア人が親日ではありますが、戦後にこれまで日本の先人たちがインドネシアと築き上げてきた国交があってこそ。むやみやたらにインドネシアを訪れた際は「日本人はインドネシア人全員から好かれている」と先入観を持たずに、これから良い関係性を築いていくつもりで接するのも重要かも知れません。
2018年はインドネシアと日本の国交は60周年を迎え、大いに盛り上がりました。これからも日本とインドネシアが良い関係のまま国交が続いていくことを願います。